澱1

(範行side)

転院から半年。
晃の体調は順調に回復している。

転院したての頃は激しかった精神症状も、最近では随分と落ち着いてきた。
投薬も嫌がらないし、リハビリも頑張っている。
この様子なら、開放病棟で他の患者さんたちの中で生活させて、社会性を育てた方がいいだろうと判断された。
確かに、言葉が上手く出ないのが少し不安だが、リハビリ科の個室でオレにばかり頼る生活よりも、晃自身が他人に働きかけなければならない開放病棟の方が、自発性が育つのではないかと思う。

オレも、今までのように毎日入り浸る訳にいかないから、ここで子離れする時期かなと、甘えさていた反省もあり、考えている。
実際、晃が喜ぶからと買い集めたバイクの模型は、短期間でかなりの数に上った。
今度の病室は個室ではないし、精神科のルールで、私物の持込は独自の基準に従わなくてはならない。模型はNGだと、真っ先にチェックされた。

病室の移動を説明した時、晃は特に反応もなかったから、平気なんだろうと思っていた。

翌週見舞いに行った時に、晃の無反応は了承ではなく、理解できていなかったからなんだと思い知った。
オレを見つけると「も・・もけい・・は?」と言う。
「ここではダメなんだよ。他の人もいるから、ルールを守らなきゃ」言ってみるが、反応が悪いのでやっぱり理解できないのだろう。
「代わりに、新しい雑誌持ってきたから・・・な?」そう、さっきナースセンターで検閲され、ハンコを押されたバイク雑誌を見せる。
前の入院では全く興味を示さなかったが、今回はバイクにしか関心が向かないらしく、本も模型もバイクばかりだ。中等部の頃、バイクの無免許で補導経験もある晃だから、分からないでもないが、今回どうしてそうなのか理解し難い。
ただ分かっているのは、当分模型の件は聞かれるのだろうなということ。そう考えると、気が重くなる。

前の病院で丸刈りにされて以来、始末のしやすさから2〜3cmの長さの坊主頭が定番になりつつある晃が、4人部屋のベッドで雑誌を見ている。転院したばかりの頃、保護室にいたことを思うと、今の穏やかさが奇跡のようだ。



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澱2

(晃side)

いつだったか、誰かが紙とクレヨンをくれた。

だから、紙一面を青いクレヨンで塗りつぶして、俺は空の絵ばかり描いている。
すぐに紙がなくなってテーブルや床に描いていたら、他の誰かが紙をくれた。裏に絵や字がかいてあるツルツルの紙。その代償に、キスさせてやる。
チビたクレヨンを見て、今度はクレヨンを買ってやるから・・・いいだろう?・・・と、言われた。
どういう意味か、分からない。

俺は、いつも緑色のゼリーの中に入っているようで、ふわふわと現実感がない。
ココハドコダロウ・・・。

食事は、1人で出来る。
原型を留めないほど刻まれたドロドロ状のモノが、俺の“食事”だ。
左手でスプーンを持って、テーブルまで覆うエプロンを付けられて、機械のように口に運ぶ。ほとんど完食したことはないけど、旨いとか不味いとか考えたことはない。
それだけでは足りない栄養素は、午前と午後の間食で補われる。
病室ですると他の奴に取り上げられるから、看護師のところへ呼ばれてゼリー飲料で補給する。これが摂れたら、点滴はしなくていいから俺もなるべく全部胃に入れるようにしている。
食事の前は、数種類の薬をザラザラと紙コップに入れられ服用しなければならない。粉薬が苦手で咽て飲めなかったら、“食事”の上に振り掛けられ口に押し込まれたことがある。ちゃんと服んだか口を開けて見せなければならないのも辛い。俺の薬の量は、他の奴らより大分多いらしく数度に分けて飲んでいる。薬だけで腹が一杯になる。
俺はこんなに大人しいのに、看護師はしょっちゅう俺を監視している。

前は、誰もいない部屋に1人だったのに、気付いたら他の誰かが部屋にいる。だから、俺の場所は自分のベッドだけだ。それだから、沢山持っていたバイクの模型はどこかへ行ってしまった。
言葉がうまく出なくて、どうしてそうなったのかちゃんと聞けない。

誰かがする指示もよく分からないから、従うことも難しい。それなのに、体のリハビリは何故か進んでいるらしい。
そう、俺はベッドから動けなかった筈なのに、いつの間にか足に補装具を付けて歩行器を押してトイレに行っている。
でも、ゆっくりとしか歩けないから、小便が間に合わないことがある。
補装具が邪魔で、穿いている紙パンツの交換を自分でできないから、看護師のところへ行って取り替えてもらわなければならない。自己申告するのも恥しいのに、紙パンツを穿かせてもらうのは、漏らしてしまった幼児のようで、情けなさで胸が潰れそうになる。
便は1人で出せなくて、数日に一度処置室で摘便される。名前を呼ばれて連れて行かれるのは、嫌で仕方ないけど拒否することはできない。
ベッドに寝かされて肛門を掘られると、尿ではない白濁したものがペニスから溢れ出す。腰が重くなってガクガクと体が震える。それが怖くて仕方ない。

俺は、何かの病気だろうか・・・。




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澱3

(範行side)

開放病棟の晃は、廊下側のベッドで新聞広告の裏にチビたクレヨンで絵を描いていた。
「晃・・・」
一心に描いていて聞こえなかったのか、顔も上げない。もう一度呼んだら、今度は手を止めてオレの顔を見て嬉しそうな顔をした。
「絵を・・・絵を描いてるのか?」
ベッドの傍へ行くと、晃ははにかんだように肯いた。
「か・・か・・・かみ・・ない・・・く・・クレヨン・・も・・・」
そう、寂しそうに呟く。
「分かった。今度沢山差し入れてやるよ。いいな?」
言うと、少しびっくりしたような顔をする。

晃が画を描き始めた!今までそんな素振り1つも見せなかったのに。
以前の入院の時、芸術療法で画を描き始めてから、病状が目に見えて良くなったことが思い出されて、今回も期待できるのではないかと1人盛り上がってしまう。

「でも、随分描いたんだな?コレ、全部晃が描いたのか?」
床頭台のTVの上に、先週来た時はなかった紙の束が無造作に乗せてある。
「なに描いてるんだ?」
覗き込むと、紙が青く塗りつぶされている・・・どの紙も。
よく見ると、ほとんどの紙が真っ青だ。昔の晃の緻密な画を想像していたオレは、病状の悪さを思って目眩を感じる。体は回復してきたように見えても、精神は病んだままなのか・・・。

「・・・そ・・そら・・」
目を合わせず、呟く晃。
言われてもう一度見れば、確かに一枚一枚を見ると単色で塗りつぶしているだけのように見えるが、夫々青色だったり、水色だったり、紅色だったりする。並べてみると、空の景色に見えてくる。
「へぇ、ちゃんと空に見えてくるよ。でも、雲とかないのか?」
提案しているのに、当の晃は聞いちゃいない。

不自由そうに足をベッドから降ろして、脇に置いてある歩行器へ手を伸ばす。
「どうかしたのか?」
「・・・と・・といれ・・・」
「大丈夫か?」
手を出したくても出し切れないオレを無視して、晃は裸足のままそこへ掴まろうとする。
ついこの間までは、1人で何処かへ行こうなんてしなかったのに・・・。
「スリッパは?」
裸足のまま行こうとするから、スリッパを履かせようと呼び止める。いくら、もう温かくなったと言っても、スリッパ無しはないだろう。
「ころぶ・・・」
そう言って、晃は部屋のドアへ向かう。
両肘で歩行器を押さえ寄りかかるように、一歩進むごとに大腿から足先まで補装具を付けた左足を引いて、ひどくゆっくりだが自力で歩いている。

途端、ドアが開き50絡みの男が勢いよく入ってくる。
「おっと・・・なんだ、晃か。」
そう言って、バランスを崩した晃を助け起こしてくれる。
「今、詰め所で紙貰ってきてやったから、お前にやるよ・・・だから・・・いいだろう?」
そう、耳を甘噛みするように話しかける。
「いいって・・・なんですか?」
後ろにオレが居るのにやっと気付いたらしい男は、広告の束を晃のベッドに置き、誤魔化すように笑って出て行った。
「晃、いいって・・・なんだよ。」
男の様子が気に入らなくて詰問する。
「・・・か・・かみ・・くれる・・から・・きす・・」
「キスぅ〜!!お前、キスなんかさせるのか?あんな、オヤジに!?」
あんまりな言葉に、素っ頓狂な声を上げる。
「・・・く・・クレヨン・・も・・くれる・・・って」
下を向いて消え入るような声で言う。

「分かった!あき坊。お前がそんなことしなくていいように、宇梶医師(せんせい)に頼んでおくから。画の道具もすぐ揃えてやる!!」

前の病院でのことが頭をよぎる・・・もう、あんなこと2度とゴメンだ。




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