融解1

それまで順調だった晃の体調がガクンと落ちたのは、7月の中旬。

ずっと睡眠のコントロールが上手く行っていて、夕食後早い時間に就寝するとそのまま朝まで眠り続けていた晃が、夜半に目覚めるようになってしまった。
昼寝から覚めた時なら問題ないことだが、夜半に起こるそれは混迷の上徘徊を伴う。そんな時・・・聞きたくないことだったが・・・部屋にあるトイレにさえ行けず、床を這い失禁しながらドアを叩いて泣き叫ぶそうだ。あまりに混乱が激しいので、夜間は点滴で眠らせるようになったが、その所為か、昼間の自力歩行が難しくなってきた。その為に一日中おむつ使用になり、それまで自発性が見られたことにも意欲がなくなり、リハビリも休みがちになっている。

そんな中で、唯一絵を描くことだけは続いている。
それだけが、救いと言えば救いだろうか・・・。


その日見舞いに行った時、晃はいつも通り画用紙に絵を描いていた。
「の・・のり・・」
画用紙から顔を上げないままオレを呼ぶ。
「ん、なんだ?」
また画用紙が足りなくなってきたんだろうか。紙とクレヨンが自由に手に入るようになって、晃の絵を描くスピードは信じられないくらい早い。
「・・き・・き・・くるって・・・るの?・・・おれ・・・」
吃音が酷くて、慣れないとよく聞き取れない晃の言葉。
晃もそれを気にしてか、何度も聞き返すと話すのを止めてしまうから、一度自分の中で反芻してみる。

・・・え?

「あき坊、お前・・・」
「き・・くるってる・・・の?・・・」
テーブルの上に置かれた、黒いサポーターを巻いた右手が細かく痙攣している。左手はもう絵を描いていない。
「なんで、そんなこと思うんだよ。」
「び・・びょ・・・き・・・」
肩を震わせ、泣いているようだ。
「バカだな。大丈夫だよ。」
昔なら、絶対にそんな風に泣かなかった甥が哀れだ。
「誰かに、何か言われたのか?」
無言で首を横に振り続ける晃を、どう宥めてやればいいのか途方に暮れる。
今まで、自分の病気について聞くこともなかった晃が、そんなことを口にするなんて、いい傾向なのかどうなのか判断に困る。

激しかった精神症状を抑えるために様々な薬を試して、昔の甥に比べたら恐ろしくヌルい反応しかできなくなったが、ようやく神経が落ち着き、歩行器での自力歩行が可能になった。
服用する薬は多く、相変わらず食事に関心が向かず少量の刻み食しか入らないが、少し前までは自分でトイレに歩けるようになって喜んでいた。
絵を描き始めてから目に見えて落ち着いて、そろそろ外泊も試してみようか・・・つい半月前までは、そんな話も出ていた。

それなのに・・・。



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融解2

「・・・き・・き・くる・・・てるの・・?・・・おれ・・」

自分は狂っているのか・・・と泣く晃の声が耳から離れない。
自分の体どころか心までも、ままならないのが耐えられないと泣いているように見えた。
 
結局、オレだけでは落ち着かせることができなくて、看護師に来てもらわなければならなかった。
その時の薬剤がいけなかったのか・・・いや、いつもと同じものを入れていた筈だ。
それとも、これまでの多量の投薬が体の限界を超えたのか、その夜から晃の副作用地獄が始まった。

40度から下がらない高熱の為、意識混濁を起こした晃は集中治療室へ運ばれた。
体の不随意運動が起こり四肢を拘束され、点滴だらけにされた晃は咽喉までパイプを入れられ呼吸管理を受けた。
腎障害の所為で欠尿が続き人工透析が行われ、体中の血が機械へ入り戻るのを横目に、晃の手を握ると、熱く浮腫んでいるのが分かる。肝機能も落ちているらしく、蒼白くさえあった肌が赤黒く感じる。
意識はないのに、眼球が上転し首も後屈してしまう晃は、何か言いたいのかそれとも声帯が震えているだけなのか、時折力なく唸り声を上げる。――オレには、どうすることもできない。

気をつけて、検査は事ある毎に行っていたのに、一番注意していた悪性症候群が起こってしまったと、宇梶医師は言った。

15の年から病院と縁の切れなかった晃に、まともな体力がある筈もない。
今回の入院でどれだけ衰弱したか、説明するのは難くないだろう。
このまま腎臓が壊れるか、合併症を引き起こして死亡する可能性もあると言われて、足元の床が崩れるような感覚を覚えた。

こんな宣告は、何度聞かされても慣れることはできない。
"事故”で担ぎ込まれた時も、同じことを言われた。
あの時は、なんとか持ち直し、ここまで生きて来れた。
しかし今回、奇跡は起こってくれるだろうか・・・。

憔悴する宇梶医師に、最善を尽くして貰うことをお願いするしか、オレにはできなかった。

暫く放心したように、集中治療室前の廊下で座り込んでいた・・・と、思う。
どの位そうしていたか分からないが、思い立って勢伊子に電話を入れた。

受話器の向こうの沈黙。
2人、黙り合ったまま時間ばかりが過ぎてゆく。
やっと、勢伊子がこちらに向かうからと言い、電話が切れた。



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融解3

晃は・・死ぬんだろうか・・・?
死んでしまったら・・・どうしよう・・・。
小さかった甥や、生意気だった中等部の頃、15の時からの苦しみ、"事件”のこと――早手回しに、頭の中を晃が死んだ時の光景が駆け巡る。耐えられない。
そして、もしも・・・晃が死んだら、清野(あの男)を殺しに行こうと決めた。

「兄さん!」
信じられない・・・もう、勢伊子が来た。
随分早かった・・・そう思ったが、窓外は既に薄明るくなっている。
「どう?あき坊・・・」
気遣わしげに勢伊子が尋ねる。
「――腎臓がやられちまって・・・。うまく回復できればいいんだけど、これ以上壊れるとヤバイらしい・・・」
そして、今までの経緯を事務的に報告した。
ナースセンターへ妹が来たからと、面会を頼み、身支度をして晃の傍に行く。
相変わらず、その細すぎる体に管が沢山入っている。
首の後屈は治まったらしいが、拘束は相変わらずだ。それでも、静かに仰臥しているのが救いだ。
「あき坊」
妹が晃の左手を握り声を掛ける。
「あつい・・・」勢伊子がそう呟く。解熱剤がうまく効かない・・・そう言われた。
「あき坊、負けるな。いいな・・・あき坊」
晃の耳元へそう話しかける。苦しそうに体を捩ろうとするその額へ手を乗せると、コッコと火の燃えるような熱さを感じる。
「あき坊、目を開けて。勢子ねぇが来たのよ」
妹が強く晃の手を握る。その浮腫んだ手に握られた場所だけが白くへこみができる。
「あき坊」
もう一度呼ぶと、分かるのか?頭を左右に振り、きつく目を閉じた眉間に皺を寄せる。
「・・・・・う・・・」
か細く、力のない呻き声が晃の口から漏れる。それは、呼吸器の出す喧しい音にすぐかき消されてしまったが、それでも、オレには・・・多分、勢伊子にも・・・聞こえた。
「あき坊!!!」
オレたちは、知らず声を合わせて呼んだ。



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