乖離1

体を幾重にもベルトで固定され目覚めた俺は、やはりベッドに1人だった。

口に枷を嵌められ、言葉を発する (舌を噛む) 自由を止められ、俺ははっきりしない目をぼんやりと天井にやっているだけの人形になっている。もう、暴れたり叫んだりする力はない。体の奥底から湧き上がる衝動はもうない。
――今の俺は抜け殻だ。

「晃、大分落ち着いたみたいだね。」
誰か――範行じゃない――が声を掛ける。でも、俺にはその声の方へ目を向ける気力さえない。
覗き込むように、俺の目の前に眼鏡を掛けた若い男の顔が現れる。
「分かる?キミの主治医の宇梶だよ。」
触ってもいいかい?――そう聞いてから左手首に指を当てて脈を診る。
「久し振りの発作だったね。」
そんなことを言う男の口元を見ているうちに穏やかな気持ちになってくる。

――宇梶・・・。俺はこの男を知っている。
もう長いことこうして診察を受けている筈なのに、この時やっと認識できたと思った。

「枷を外してあげよう。発作の治まったキミに拘束は必要ないものね。」
そっと、その冷たい手を当て口に嵌められた枷を外してくれる。そして、体とベッドを縛り付けていたベルトも外し、手足を擦ってくれる。
左腕に入っている点滴が目の隅に映った。いつもはされていない酸素チューブが両鼻腔に入っているのもなんとなく見える。体の疲労の所為か、触られている所為か、意識が飛んでは戻るということが繰り返される。
「眠ってもいいよ。疲れているだろうから・・・。」
言われなくとも、とろとろと眠り始める俺をドアが開く音が引き戻す。

「――あ、宇梶医師(せんせい)・・・。すみません・・・。」

聞き覚えのある太い声・・・範行だ!

「あ、晃。冴木さんの声で表情が出ましたよ。」
宇梶医師の声が遠く聞こえる。
「あき坊・・・心配したぞ。でも、大丈夫そうで良かったな・・・。」
範行が近くに来てくれて、そこだけが明るくはっきりと見える。
「今までで一番でっかい発作だったんだぞ。心臓が止まり掛けて・・・」
そう、頬を撫でてくれる。
あのまま、こちら側に戻ってこないのかと心配したとも・・・。それを聞いているうちに熱くなり、目から涙が零れた。

「・・・・・・ ・・・・・・ ・・・・・・」

何か言いたいのに、言葉にならない。
範行が優しくしてくれる。
範行が触ってくれるところから少しずつ温かくなっていくのが感じられる。
範行は何も言わずに俺を慰めてくれる。

「発作を抑える薬が強いので、暫くぼんやりしていると思いますが・・・。」
宇梶医師の言っているらしい言葉が、俺にははっきりと聞き取れなかった。



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乖離2

(範行Side)

晃は相変わらず大小の発作を起こしている。
先日、大発作があり数日して精密検査を受けた。
結果は入院当初に比べ、数値的に良くなったものもあれば変化のないものもある。これがいい傾向なのかどうかは分からない。

発作時以外に自分から体を動かすことはないし、点滴の本数が減る訳でもない。
それでも、宇梶医師は 「いい傾向にある」 と言うばかりで、オレには良く分からない。こんな風に病状がはっきりしないまま月日が過ぎてしまうのではないかと考えることもあり、どうしようもない不安に襲われる。心細い気持ちを支えようと、病気に関する本を読み漁ってみるが、どれも晃に当てはまらないような気がする。不吉なことばかりに目が行き、しなくてもいい心配まで抱え込むことになる。
この手の病気は、一定状態のまま固定してしまうことも多い・・・というのは本当だろうか?一体、どの程度の確率でソレが起こるのか分からなくて、余計に気を揉んでしまう。考えれば、悪い方へ悪い方へ流されてしまう。
オレがこんな風ではいけない・・・前を見て明るく考えなければ晃に良い訳がない・・・分かっているつもりなのだが・・・。


そんな中で、晃がオレを目で追ってくれる。
こちらの話し掛けへの理解はまだ十分でなく、すぐにパニックに陥るが、話すことのできない晃の目は、時々信じられないくらい綺麗だ。

それに、今まで苦痛しか訴えなかった晃の言葉にオレの名前が加わったことは大きな変化だ――と言っても、完全には発音できなくて 「の・・・の・・・の・・・」と繰り返すだけだが。

身の回りの世話をしてやりながら、ふとこいつが中学生だった頃はこんな風にずっと一緒に居たことなんてなかった・・・と思う。
オレは開店させたばかりの店のことで頭が一杯だったし、晃は遅くまで学校で絵を描いていた。帰宅してからも自室に籠って絵ばかり描いていた。別段、仲が悪い訳でもなかったが、勢伊子が嫁いで以降、2人だけで居るのは気詰まりな気がしていた。
でも男同士なんてこんなもんだと、自分と親父の関係を思い納得していた。それが、良くないことだったと今になって思うから、取り返すようにオレは、時間の許す限り晃の側に居る。




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乖離3

毎日のリハビリは日課に組み込まれているらしい。
これは俺の意思とは関係ない。

自分から動くことのできない俺の体は、放っておくと本当に錆付いて動かなくなるそうだ。 ――だから、「がんばろう」・・・ 範行が俺の体を擦りながら励ましてくれる。それでも、痛くて苦しいのは変わらないから、泣いてしまう。

排泄を教えられない俺は、いつも紙おむつを当てられてそこへ小便を垂れ流している。出てしまうと尻や股が痛くなるのに、下痢まで始まってかぶれてしまったらしい。普段は、硬く自分では排便できないのに、体調が一定しないのか時々こんな風になってしまう。
皮膚が弱いらしくすぐに酷くなってしまい、股を消毒する薬を掛けられると灼けつくように痛くて毎回大声で泣いた。小便が出てさえも傷に沁みて泣いてしまうので、刺激を減らそうと尿道へカテーテルが留置されるようになった。
下痢が止まるとまた、肛門へ指を入れられ掻き出す処置が始まった。これまで何十度もされているのに、痛くて怖いのにいつまでも慣れない。カテーテルが入ったまま肛門に指を入れられる処置をされると、ペニスが勃ってしまうので堪らなく痛い。
こんな時は内臓を引き千切られるような痛さで、声を上げて泣く時とは違った苦しさだ。


泣きたいのに、どういう訳か声を上げて泣けなくなってしまったのは何時からだったか・・・。
泣かなくなって 「偉い」 看護師らは赤ん坊をあやす様に言うが、俺はとても苦しくなってしまった。
切り取ったはずの胃までキリキリと痛んで、流動食を流し込まれることも苦痛だ。それなのに、何故か 「嫌だ」 も 「痛い」 も言えなくなってしまった。

範行が何か話し掛けてくれるのは見えるし、俺の世話をしてくれているのもなんとなく解る。けれど、俺だけがゼリーの中に閉じ込められてしまったみたいで、何に対しても実感がないし反応できない。いつの間にか、自分が起きているのか眠っているのかさえも分からなくなっている。


時々、目の隅を赤くて小さなヒラヒラが通り過ぎる。

それを見ると、少しだけ自分の周りの厚いゼリーが薄くなるような気がする。
少しずつそれが何か分かってきて、やっと金魚鉢の中で泳ぐ金魚だって分かった。
少しの間、金魚鉢だけがクリアに見えて他のものは相変わらずゼリー越しに見えてすごくおかしな気持ちだ。

――早く、このゼリーから出られたらいい。




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